めくるめく雑記帳

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太宰治『女生徒』―正しく生きたいのにそうならない思春期の葛藤

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高校1年の夏休み、太宰治の『女生徒』を読んだ私は度肝を抜かれた。

"えっ、ちょっと待って...??どこのページを開いても、私が普段考えていること―しかもこんなこと口に出してもしょうがないことだからそっと心の中にしまっておこうって思っていた感情ばかり―がそのまんま書いてあるんですけど..!えっ、なんで太宰さんはこんなに10代の女の子の気持ちを知っているのですか..?どういうことですか???”

 

などと思ってひどく動揺して、夏休みの宿題で読書感想文を書かなくてはならないので、何の本がいいかなあ、なんて思って読む本を探していたはずの私は、一気に読書感想文どころではなくなり、

あ、でも、これだけ心が動くのだからこの本で読書感想文を書いたらいいんじゃないの?なんて思ったりもしたけれど、一文字も感想なんて浮かんでこないままで、なんでこんなに好きなのに感想文ひとつ書けないんだろうとその理由さえわからなくて、結局『女生徒』で読書感想文を書くことはあきらめて、別の本で読書感想文を書いた。

 

それに、このごろの私は、子供みたいに、きれいなところさえ無い。汚れて、恥ずかしいことばかりだ。くるしみがあるの、悩んでいるの、寂しいの、悲しいのって、それはいったい、なんのことだ。はっきり言ったら、死ぬる。ちゃんと知っていながら、一ことだって、それに似た名詞ひとつ形容詞ひとつ言い出せないじゃないか。

 

ほんとうに私は、どれが本当の自分だかわからない。読む本がなくなって、真似するお手本がなんにも見つからなくなった時には、私は、いったいどうするだろう。手も足も出ない、萎縮の態で、むやみに鼻をかんでばかりいるかも知れない。何しろ電車の中で、毎日こんなにふらふら考えているばかりでは、だめだ。からだに、厭な温かさが残って、やりきれない。何かしなければ、どうにかしなければと思うのだが、どうしたら、自分をはっきり掴めるのか。これまでの私の自己批判なんて、まるで意味ないものだったと思う。批判をしてみて、厭な、弱いところに気附くと、すぐそれに甘くおぼれて、いたわって、角をためて牛を殺すのはよくない、などと結論するのだから、批判も何もあったものでない。何も考えない方が、むしろ良心的だ。 

 

本能、という言葉につき当ると、泣いてみたくなる。本能の大きさ、私たちの意志では動かせない力、そんなことが、自分の時々のいろんなことから判って来ると、気が狂いそうな気持になる。どうしたらよいのだろうか、とぼんやりなってしまう。否定も肯定もない、ただ、大きな大きなものが、がばと頭からかぶさって来たようなものだ。そして私を自由に引きずりまわしているのだ。引きずられながら満足している気持と、それを悲しい気持で眺めている別の感情と。なぜ私たちは、自分だけで満足し、自分だけを一生愛して行けないのだろう。

 

プラットフォムに降り立ったら、なんだかすべて、けろりとしていた。いま過ぎたことを、いそいで思いかえしたく努めたけれど、いっこうに思い浮かばない。あの、つづきを考えようと、あせったけれど、何も思うことがない。からっぽだ。その時、時には、ずいぶんと自分の気持を打ったものもあったようだし、くるしい恥ずかしいこともあったはずなのに、過ぎてしまえば、何もなかったのと全く同じだ。いま、という瞬間は、面白い。いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くへ飛び去って、あたらしい「いま」が来ている。

 

こんなかんじで「うわあ参りました..そう、そうなの、10代の頃ってそんな感じでしたよ..」と思う場所を引用していくと全文引用してしまいそうだ。 

 

いまだに『女生徒』を読み返すと、あの頃の生々しい感情が瞬間的にばっとよみがえるので恐ろしい。(しかも短編なのですぐ読める。瞬間タイムスリップだ。)

 

太宰作品の青春小説は青春の渦中にある若い人にとっては自分の心を暴かれてしまったかのような高揚感を味わうことができるし、はるか昔にそこを通り過ぎてしまった私のような人にとっても、やめておけばいいのに古傷をわざわざ押して「うわあああああやっぱりまだちょっと痛かったあああ」というような痛みを味わえるなと思う。