くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである―四季おりおりに現れる、不思議な“生き物”たちとのふれあいと別れ。心がぽかぽかとあたたまり、なぜだか少し泣けてくる、うららでせつない九つの物語。デビュー作「神様」収録。ドゥマゴ文学賞、紫式部文学賞受賞。
(Amazonの作品紹介より引用)
なにかに「合わせる」ということは無駄なことなのか?
わたしはこの『草上の昼食』を読むたびに毎回せつなくなって泣いてしまい、感想を書こうとすると「ふう……(言葉にならない)」みたいな感じになってしまってですねえ……
いやー、感想文が、書けないです(じゃあ、「感想」とかいうタイトルでブログ書くなって話なんですが)。
短編ながら、こんなに淡々とした文章ながら、ほんとうに、すごい……(呆然)
それだと感想文にならないので、もう少し掘り下げますと……
わたしは、くまと友達になったことはないですが(あたりまえだが)、この物語に描かれている状況に近い心理的な経験は、めちゃくちゃ、あるな……と、いろんな思い出が去来してしまいます。
ここに出てくる、主人公の友達としての「くま」は、やはり「くま」じゃないとだめだな、人間ではなく。絶妙なキャラクター設定すぎます。
以前の記事でわたしはこのように書いたわけですが、
物語に登場する「くま」は、人間の世界に住んでいますが、ルーツは人間とは異なります。
主人公の視点で物語は進みますが、くまが心の支えとしているものやルーツを、主人公は知ることができません。つまり、目の前にいる相手と親しく時間を過ごしても、その内面を理解するには深い隔たりがある、ということを描いているように感じました。
「内面を理解するには深い隔たりがある」相手と親しくなる、とは果たしてどういうことなのか、という問いを、この物語を通して投げかけられているような感じがします。
はじめから「内面を理解するには深い隔たりがある相手」とは、親しくならないほうがよいのか?……
自分以外のなにかに「合わせる」ということは、無駄なことなのか?
といった問いが、心の中に浮かんできます。
個人的にはこれらの問いすべて「いや、そんなわけないだろう」と思います。
合わせる、ということは、相手を気遣うこととも言えると思います。自分以外の何かを大事に思うからこそ、ありのままの自分を100%出すのではなく、相手の常識・通例に「合わせる」必要があるわけです。
でも、また、「合わせる」ことが、ありのままの自分をあまりにも圧迫するようであれば、それはずーっとは続けられない行為であるということも覚えておかなくてはなりません。自分以外のものに完全に同化するなど、誰にとっても不可能なことですからね。
自分の中にある常識、はたまた、無意識でついやってしまうこと……そういう「くせ」のようなものは誰にでもあるわけで、自分と相手のちがいを、心の片隅で意識しつつ、共生していけたら良いな、ということを思います。
祈る、という行為の美しさについて
物語のなかで、主人公が祈るところがあります。
寝床で、眠りに入る前に熊の神様にお祈りをした。人の神様にも少しお祈りをした。
とても美しくて好きな場面です。
わたしたち人間同士でも、おなじ人間同士であっても、それぞれ見えているものや考えていることは異なります。共生していく中で違和感を感じることはどんなに親しい間柄でも避けられなく、関係性を持続させることは、なかなか一筋縄ではいかないことなのだと思います。ずっと同じかたちではいられない、と言えましょう。
しかし、祈ること、相手を思うこと、相手の平静や無事を祈ること、これは誰にでも、誰に対しても、どんなに離れていてもできることです。
わたしもまず他者のために「祈る」ところからはじめてみようかな、などと思う次第なのでした。