めくるめく雑記帳

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村上春樹『蜂蜜パイ』―物事を「目に見える形に変える」とは?

村上春樹さんといえば長編小説のイメージが強いですが、短編もいいですねえ。

今回は、短編小説集「神の子どもたちはみな踊る」の最後に収録されている作品「蜂蜜パイ」について書きたいとおもいます。この話とても好きで定期的に読み返してしまう……

しんと静まりかえった心の中のいちばん深い場所で、たしかに、それは起こった。生きること、死ぬこと、そして眠ること―1995年2月、あの地震のあとで、まったく関係のない六人の身の上にどんなことが起こったか?連載『地震のあとで』五篇に書下ろし一篇を加えた著者初の連作小説。
内容(「BOOK」データベースより)

この作品集「神の子どもたちはみな踊る」に収録されている話の登場人物は、みんな1995年に起こった阪神大震災に何らかの形で関わっています。
作品の舞台はみんな神戸以外の地域になっており、関わり方が間接的であることが特徴的です。

 

3人の男女の人間関係

『蜂蜜パイ』の序盤では主人公の淳平、大学の文学部で出会う高槻、小夜子との人間関係が描かれます。

人見知りで内省的な淳平ですが、人づきあいがうまくて決断力とリーダーシップがある高槻と仲良くなり、さらに小夜子も加わり三人で行動するように。

淳平は小夜子のことを好きだったし、おそらく小夜子も淳平のことが好き。けれどその気持ちを伝えあうこともないまま、高槻に先を越されてしまい、小夜子は高槻と付き合いはじめることに。そして結婚し、娘の沙羅が産まれる。しかし、二人は離婚してしまう。

序盤はそのようなストーリーが展開されます。

なんでしょう「人間関係ってこういうとこあるよねー」とか言ってしまえばそれまでなのですが……
高槻とつきあうことになったことを淳平に伝えたあと、小夜子は
「何かをわかっているということと、それを目に見える形に変えていけるということは、また別の話なのよね。そのふたつがどちらも同じようにうまくできたら、生きていくのはもっと簡単なんだろうけど」
という、なんとも示唆的なせりふをつぶやきます。

淳平は小夜子といわゆる「両片思い」と言って差し支えない状態だったわけですが、「それを目に見える形に変えていけ」る力が無かったがために、告白できなかったわけですよね。

高槻には、結果がうまくいくかいかないかはさておき、まあやってみよう、と失敗をおそれず行動にうつせる強さと潔さがある。

さらに、淳ちゃんと小夜子の「両片思い」にもうっすら気づきつつ、それでも自分の欲しいものを欲しいって口にだせちゃう図々しさと、結果的にそれでも淳ちゃんとの親友関係も維持しちゃう強引さがありつつそれでも愛されちゃう人間味、があったわけですね。よくもわるくも。笑。

 

高槻と小夜子の結婚生活は最終的にうまくはいかなくなるわけですが、それも込みではじめから想定範囲内だったのかもしれませんね。

小夜子もねえ、もしかしたら「淳ちゃんのこと、すごいすきだけど、、なんかこう、実生活でどっちのほうが強そうか? っていったらやっぱ高槻くんだからそういうのも含めて、高槻くんとつきあうことにするね……あとわたしのこと好きって言ってくれるひととつきあいたいから……」とか言いたかったかもしれないよね。まあやっぱそれだとストレートすぎて角が立ちまくるからダメか……

婉曲的な表現というか、人生におけるあらゆる局面にあてはまるような汎用的な言い回しを持ってくるのが鳥肌がたちますわ。

作家としての淳平

淳平の書いた短編小説は文芸誌の新人賞を取り、小説家になるわけですが「短編しか書けない作家」さらに「ハッピーエンドの物語が書けない作家」として作家活動を続けます。

淳平が書く短編小説は、主に若い男女のあいだの報われない恋の経緯を扱っていた。結末は常に暗く、いくぶん感傷的だった。よく書けている、と誰もが言った。しかし文学の流行からは間違いなくはずれていた。

長編小説を書こうとすると淳平はいつも困惑を覚えることになった。何カ月ものあいだ、あるいは一年近く、いったいどうやって意識の集中を保持し、御していけばいいのだろう。彼はそのペースを掴むことができなかった。

どれだけあがいても、俺は結局どこにも行けないんだと実感した。そういうときには机に向かって無理に仕事をするか、あるいは起きていられなくなるまで酒を飲んだ。それを別にすれば、静かな破綻のない人生だった。

淳平は潜在的に乗り越えたい課題を抱えつつ、新しい世界に足を踏み入れることを潜在的に望みつつ、現状維持を選んでしまう。(終盤を迎えるまでは。)なんだか小夜子との恋愛の経緯と似ている気がしますね。

淳平の書く小説作品はフィクションかもしれないけれど、テーマをぽーんと異世界から引っ張ってくるものではなく、書き手である淳平がそれまでの人生を通して見てきた景色を反映するものなのでしょう。

「書き手の中に存在しないものを作品として成立させるのはむつかしい」「まず自分の人生そのもののを充実させてからでないと作品づくりの壁を超えることは難しい、ということなのかもしれませんね。

 

「ものごとを目に見える形に変える」とは

物事を目に見える形に変えることよりも現状維持を選び続けてきた淳平が、状況の変化に伴って、最終的についに満を持して変わっていくことを予感させて物語は終わります。

 

1995年という年は、阪神大震災と地下鉄サリン事件の両方が勃発した年。
本作を読むと1995年に起こった事件も「昔の出来事」とは決して思えず、わたしたちが生きているこの世界は決して安全ではなく、平穏はいつ破られるかわからない、そんなときにどう振る舞う? という警告を投げかけられ続けているように思えます。