『桜の森の満開の下』は、1947年に発表された坂口安吾の代表作です。
人間の残酷さ、崩壊した倫理、恋愛の狂気によって狂わされる人間の姿などが同居しつつ、すべてが現実離れした「美しさ」で満ちていて巧みに描写された短編小説です。
何度読み返しても「はあー………」とため息がでちゃいます。
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以下、わたしなりの解釈で読書感想を書いてみたいと思います。
※全面的にネタバレした上で感想を書いていますので、物語の内容を知りたくない方はこの先はお読みにならないでください
美しい女に翻弄される山賊
この物語の主人公は鈴鹿峠に住む山賊(さんぞく)。
普段は旅人を襲い、身ぐるみを剥がし、気に入った女性を妻にすることを繰り返しています。
彼は怖いもの知らずですが、なぜか「桜の森の下」にだけは恐怖や不安を感じていました。
ある日、山賊は旅人を襲い、連れの美しい女性を新たな8人目の妻にします。(8人目……?)
山賊は、女の夫を殺すつもりはなかったが「女が美しすぎたので、ふと、男を斬りすてて」しまう。女の美しさは、山賊の行動を狂わせてしまうほどの魅力があったのです。
彼女は山賊を恐れることなく、さまざまな要求を押し付けます。山賊は彼女の言うことなら何でも聞いてしまうようになります。彼は、もともと自分が一番だと思っていましたが、彼女に出会ったことでその優先順位が変わってしまいました。今や「自分」よりも「彼女に認められること」が優先されるようになるのです。
女が行う「むごたらしい」遊びが暗示するもの
女の要求は次第にエスカレートし、最終的には「首遊び」という残酷な遊びにまで発展します。山賊に気に入らない人を殺させ、その生首を持ち帰らせて遊ぶのです。
しかし坂口安吾の淡々とした描写によって、このグロテスクな内容がどこか滑稽で退屈さえ感じるように描かれています。
この「首遊び」は、女が自分の自尊心を保つために行っているものでしょう。彼女は自分が一番でなければ気が済まず、気に食わない人間を消し去るだけでは飽き足らず、支配下に置いて弄ぶことで優越感を得ようとしていることを表していると思われます。そして、強い山賊が自分に夢中になり、何でも言うことを聞くことで自尊心を満たしていた。彼女は非常に自己中心的で、他人を操ることに快感を覚えていたのでしょう。
故郷へ帰ることを決意する山賊
女の要求はどんどん過激になり、山賊は次第に苦しさを感じるようになります。そして、自分を見失い、故郷である山へ帰る決意をします。すると女は「お前が山へ帰るなら、私も一緒に山へ帰る」と言います。山賊は驚きますが、女が「お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」と言うことで、彼女を連れて山に戻ることにします。
お前と首とどっちかを選ぶかって、すごいパワーワードですね。そんな2択あります?「仕事と私どっちが大事なの?」みたいなやつが、めちゃくちゃ平和に思えてくるよね。
山賊が故郷に帰るのは、自分の自我を取り戻す、みたいな意味合いもあるはず。読者としては、元凶である女を連れて行くことで、その試みが無意味になってしまうのでは? という疑問も浮かびます。しかし山賊は盲目的に女に惚れてしまっているため、深く考えることなく彼女を連れて山へ戻るのです。
桜の森と、女に共通しているもの
物語の中盤で、山賊が桜の森と女に共通していると気づく場面があります。
ふと静寂に気がつきました。とびたつような怖ろしさがこみあげ、ぎょッとして振向くと、女はそこにいくらかやる瀬ない風情でたたずんでいます。男は悪夢からさめたような気がしました。そして、目も魂も自然に女の美しさに吸いよせられて動かなくなってしまいました。けれども男は不安でした。どういう不安だか、なぜ、不安だか、何が、不安だか、彼には分らぬのです。女が美しすぎて、彼の魂がそれに吸いよせられていたので、胸の不安の波立ちをさして気にせずにいられただけです。
なんだか、似ているようだな、と彼は思いました。似たことが、いつか、あった、それは、と彼は考えました。アア、そうだ、あれだ。気がつくと彼はびっくりしました。
桜の森の満開の下です。あの下を通る時に似ていました。どこが、何が、どんな風に似ているのだか分りません。けれども、何か、似ていることは、たしかでした。彼にはいつもそれぐらいのことしか分らず、それから先は分らなくても気にならぬたちの男でした。
彼は女の美しさに心を奪われつつも、不安を感じています。その不安が桜の森を通るときの感覚に似ていることに気づきます。
桜の森と女には「見るものを圧倒させるような、有無も言わさない美しさ」という共通点があります。満開の桜の美しさが人を狂わせるように、女の美しさも山賊の行動を狂わせました。桜の森も女も、見る者を圧倒し、心を奪い、良くも悪くもそれまで一番大事に思っていたはずのものを無効化させてしまう力があるのではないか、と思います。山賊は女に出会ったことで、自分のアイデンティティーや故郷、それまでの自分の妻たちをあっさりと捨ててしまったわけですから。
ようやく目が覚める山賊
山へ帰る道中、満開の桜の森の下にさしかかると、背中におぶっていた女が鬼に変わります。山賊は鬼を振り落とし、全力で鬼の首を絞めます。ふと気づくと、全身をこめて自分の妻の首を絞め殺してしまっていたのです。山賊は泣きますが、もう女は戻ってきません。
山賊にとって、女を自分の手で絞め殺してしまったことは悲しく絶望的であると同時に、
桜の森の下の圧倒的な美しさにより「女は鬼であり元凶だった」という事実に気づかされた状態であるとも読み取れます。女への執着がリセットされ、彼の心は解放されます。
ラストシーンをどう捉えるか
終盤の美しさは目を見張るものがあります。
そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。
彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。
山賊と女は、いわゆる共依存の関係にあり、「あなたがいないとだめ」だとお互いに思い込んでいたようなところがありました。それは言い換えるとお互い相手を失うことで自分も消えてしまう状態だったのかもしれませんね。
女の存在が消えたことで、それまでの山賊も消失してしまった、と私は解釈しました。人間は孤独なものであり、そもそも誰かと同化することなどできません。桜の美しさによって、人間が本来持つ人間の孤独(誰とも同化などできないということ)が浮き彫りになったのかもしれません。
まとめ
この作品「恋愛はそもそも異常事態」「人間は孤独である」というテーマが凝縮された物語であると解釈しています。
おそらく女に出会わなければ、山賊は本来の自分でいられたのだと思います。彼は女に出会ったことで、自分のアイデンティティーを見失ったわけですが、それが不幸なことかどうかは一概には言えないなと私は思いました。この作品には美しさが残虐さと同居しており、すべてを包み込むような慈愛を感じます。
山でしか生きられない男と都でしか生きられない女。理解しえないもの、自分とは異なるものに、瞬間的に惹かれてしまったということがロマンであり、悲劇であるわけですね。そもそも恋愛は、同化などできないはずの相手に同化したくなってしまうような異常事態であるわけで、その中で自分を見失うこともあります。人間は生まれながらにひとりきりなのがふつう(デフォルト)であり、誰かと同化することなどできない孤独なものである、といったことでしょうか。