めくるめく雑記帳

生活記録/買ってよかったもの/読書感想

音楽は好きだけれど、生演奏にそこまで興味を持てないという話

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以前からずっと漠然と思っていたことについて、いつまでも脳内に入れておくのは気持ち悪いので書き出してみようと思います。
 
私は音楽を聴くのが好きなのだけれど、ライブやフェスというものに実はそこまで興味がないということについてです。
 
「音楽は好きだけど生演奏にそこまで興味がない」なんてどうよ??と、私はずっとひそかに後ろめたさがあって、しょせん、私の「好き」なんてその程度の熱量なんだよね~とちょっと自虐的に思っていたわけです。
 
 
(ちなみに映画についても同じことが言えます。ぜひ映画を劇場で見たい!と思うことがあんまりないです。)
 
そりゃあ昔は自分でチケットをとって好きなバンドのライブに行ったこともあるし、もちろんそれはとてもすばらしい体験だったのは覚えています。自分自身もバンドをやっていたこともあるし、「生」であることの良さはじゅうぶんわかっているつもり。でも現地に足を運べないならそれでまあ別にいいや程度の感覚だということです。
 
「音源で曲を聞くよりも、生演奏のほうが良いこと」というと、例えば以下のようなことですよね。
 
  • 臨場感・迫力がある
  • 非日常感を体験できる
  • 音楽を生きた形で体感できる
  • 他の人と一体感を感じることができる
 
しかし最近思うのは、これって本当に単に「好きの熱量」の問題なのかしら?ということ。
 
要は「音楽というものになにを求めているか」の問題なんじゃないか。と。
 
上にあげた臨場感とか非日常感というものは、私にとってあくまでオプションであって、第一優先事項ではないのです。つまり
 
  • 音楽に臨場感や迫力や高揚感といったものをさほど求めていない
  • 音楽に限らず「作品の良さを、他の人と共有したい」という思いが希薄かもしれない。(もちろん少しはそういう気持ちもあるけれど、感じ方は人それぞれだしねえ..と思う。極論を言うと、好きなものは私だけが「いいなあ」って思っていればそれでいいと思っている)
  • 音楽の「生もの感」よりも、「作品」というパッケージとして捉えているのかもしれない。
  • 音楽を「動的」なものではなく「静的」なものとして捉えているのかもしれない。
 
ということになるのかと。
 
ここまで書いて、「あ、だから私は自分がライブや発表会などで演奏を間違えるとものすごく動揺していたのかもしれない」ということに気付いたのと、
 
あと、本当は生で楽しみたい気持ちもあるけれど、コロナの影響もあるし、長らく生演奏というものを聞いていないし次にそういうことができるのがいつになるかわからないのでちょっとした負け惜しみというか「ふん..だから生で聞けなくてもいいんだもん」と自虐的に自分を納得させようとしているだけかも?という気もしました。
 
多分、またすばらしい生演奏を聴いたら「生演奏に興味がないですって?とんでもない!そんなこと言ったっけ?」みたいなことを言うタイプの人間ですわたしは。そんなもんです。
 
何の話でしたっけね。よくわからなくなったところで終わります。

noteはじめました

表題の通りですが、noteをはじめてみました。今までアカウントだけ作ってあって投稿などはしたことがなかったのですが、何記事か投稿してみました。

note.com

記事を投稿して思ったこと

レイアウトの見せ方にこだわろうと思えばいくらでもこだわれてしまうブログとは違って、noteの記事投稿画面のレイアウトはとてもシンプル。背景色は真っ白・文字の色やサイズも変えられません。こんな感じ。

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エディターの機能が制限されているせいなのかどうかはわかりませんが、noteは自分の内面的な部分を書くエッセイみたいな文章がめちゃくちゃ書きやすい気がします。Twitterに書くにはちょっと文字数を超過してしまうけれど、SNS感覚でちょっと長い文が書きたいときにもよさそうです。

今までこのブログに書いていた雑記っぽい投稿はnoteの方に書いて、はてなブログには、読んだ本の感想とかを書いたり、体系的に考えをまとめたりしたいとき用にするのもいいかなー?なんてぼんやり思っています。ぼんやり思っているだけなので実際はどうするかわかりません。ではおやすみなさい。

人の話を聞けない

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人の話を聞くのが、あまり得意ではない。

リアクションが下手、とか、気の利いた声かけをできない、といった、二次的な意味ではない(もちろんそれもあるけど)。単純に「人の話を聞いて、正確に相手の言っている内容を脚色なしで脳に取りこむのが難しい」という、そのままの意味だ。

「人の話をちゃんと聞きたい」という気持ちは、わりと強いほうだと思う。確かに「ちゃんと聞こう」と思って聞き始めたはずなのに、ふと気づくと情報がこぼれていく。情報を見失う。
情報を見失うから、自分の想像力で相手の思いを補おうとしてしまって、相手が言ってないことまで勝手に想像したり、勝手に行間を読んだり、余計なフィルターが入ってしまってちぐはぐなことになる。

どういうときに話が聞けないのか、というと、ざっとこんな感じ。

  1. 相手の話が長い
  2. 相手の話の中に知らない言葉が何度も登場する
  3. 話の内容に私が興味を持てない
  4. 私が相手に対して興味がありすぎる

1~3については、まあ、ある程度しょうがないかなと思っている。対策もそれなりに立てられるので、さほど問題視していない。

例えば、相手が言った言葉の意味がわからないなら「今の○○ってどういう意味?」と質問すればいいし、話の内容に興味が持てないなら、うーん、ごめんなさい。そういうのあんまり良くわからなくて..と興味がないことをさりげなく伝えればいい。相手の話が長すぎる場合は、まあ、途中で切り上げるか何かすればいいし、基本「聞けなくてもしょうがないよね」と思っているからそんなに罪悪感を感じない。

一番、手ごわいのが、4の「相手に対して興味がありすぎるとき」。これはどういうことかというと、相手のことが好きすぎて、相手のことを理解したい!きっと私には!この人の気持ちがわかるはず!という私自身の思いが強すぎて、相手の話している内容ではなくて、自分の体験と勝手に紐づけて、自分の体験のほうを見てしまう。「わかるわかる!私もそうなんですよ!」と言いたくなってしまう。

いわゆる「自分と相手の線引きができてない」という状態だ。私は私、他人は他人であるし、世界は全然違う人間の集合体だからそれぞれの役割分担が成り立つのだし、だから他の人が考えていることを正確に理解するなんて厳密には出来るわけないから、そのためにコミュニケーションというものがあるのに、それがわからなくなってしまうことがある。コミュニケーションを、放棄してしまいたくなる。何も言わなくても、全部分かり合えたらいいのに!なんて、思ってしまう。

だって、皆が全部同じ考えだったら、何も言わなくても全部通じ合えたらすごく楽じゃない?以心伝心、最高じゃない?

と、そんな風に思ってしまうのは、大体心が疲れているときだ。心が疲れて弱って不安になっているから、他人の考えと同一化して、安心したくなるのだと思う。他人の話をきちんと聞く、というのは、元気じゃないとできない。そういうことだと思う。厄介なのは、この「疲れている」という感覚に、自分では気づきにくい場合があるところだろうか。

「疲れたら休む」のは人間の義務だと思っているんだけれど、本当に疲れていると自分が疲れていることに気づかなかったりするところがむつかしいな、と思う。

コミュニケーションが無意識のうちに面倒になっているときは、コミュニケーションから離れて疲れを取るのが特効薬だと思う。きちんと他人から距離を取ることができれば、またそのうちコミュニケーションを取りたくなるし、他人の話を他人の話として捉えることができるようになる。

必ずしも、休む=身体を休める、ということではなくて、疲れているときは「自分が何に疲れているのか」を見定めて、それと逆のことをすると回復に効果的な気がする。コミュニケーションに疲れてしまったなら、コミュニケーションを取らなくてもできること(たとえば読書とか音楽鑑賞とかを)するとか。どういう休み方がそのときに適切なのか、に気付けるようになると効率的だなと思う。

ダイエットと習慣化の話

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ただでさえ家にいるのが好きな性分なのに、コロナの影響でますます家から出なくなってしまい運動量が減り、いやさすがに、我ながら、いくらなんでもこれは不健康すぎでしょう..と危惧して、ささやかな室内運動とダイエットを始めました。 

内容はというと、


・ラジオ体操(第一と第二どっちも。とにかく真面目にやる)

・プランクワークアウト(アプリの指示に従ってできる筋トレみたいなやつ)

・朝は炭水化物を食べないで豆腐を食べる(朝はあんまりお腹空いていないから)

・何か間食したくなったらたんぱく質系のものを食べる(豆腐とかソーセージとか。どんだけ豆腐を食べるんだ..)

・ベジファースト(食事のときは、とにかく野菜から食べる)

 
というもの。とりあえずこの1週間は毎日できたのでよかった。とりあえず豆腐と野菜はおいしい

 
私のダイエットは、大体途中で目的を見失って尻すぼみに終わってしまうことが多いので「負担を大きくしすぎない」というのがまずは重要と思っている。まずは、習慣化できることをする。これら全て家の中でできることだというのも良いですね。

昔から「目標をたててそれに向かってがんばる」ということがどうも下手。なんだか、目標を掲げた瞬間に苦痛でしかなくなってしまうし、「言ったからにはやらなきゃ」って変なプレッシャーを勝手に感じてしまう。行動は伴わないのに、精神面だけ、変に完璧主義者なのだと思う。

だからそういった雑念が入る余地がないくらい、まずはハードルの低いことを習慣化させる、というのが作戦が有効。それに加えて、「いいのよ?目標は途中で変わっても。なんか違う、ってときは目標を変えていいのよ?」と自分に言い聞かせつつ、精神と健康のバランスを取りながらやっていきたい。

 

お題「#おうち時間

落ち込んだときの対処法

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今回は、

  • 気持ちが落ち込んだとき、どうやって乗り切ったらいいかわからない
  • 感情に振り回されそうになったときに、どうするべきか
  • 愚痴を言いたいけど、この気持ちをどこに吐き出したら良いのかわからない

このような感情面の不調にどう向き合うべきか?というテーマについて、わたしなりの対処法を書いておきたいと思います。もしかしたら、「愚痴は溜め込まないでたまには吐き出さないと!でも一体誰に相談したら良いかわからないし……」とか「ついネガティブなことSNSに書いてしまうけれど、投稿したあと、なんか気分が晴れないな……」というもやもやを抱えた方なんかにはおすすめできるかも。

順番に見ていきます。

自分が落ち込んでいることを潔く認める

まず何よりも最初にすべきこと、それは、自分の気持ちに素直になるということですね。あー、わたし落ち込んでるなーと認める。それだけです。

ここでのポイントは「潔く認める」こと。ここで中途半端に強がってしまうと落ち込みが尾を引くので注意したいところ。「わたしはもう大丈夫だから」なんて言いそうになったら慌てて口をおさえます(大丈夫なわけないでしょ!)

もう一つのポイントは「一人でやる」ということ。

中途半端に人に連絡をとったりするのもやめておきましょう。よくある「落ち込んでいたけど人と話したらちょっと気持ちがすっきりしたかも」みたいなの、それ、、わたしは、8割くらい幻想だと思っているんですがどうでしょう。本当に落ち込んでいるとき、ちょっと人に話したくらいじゃ気持ちはすっきりしないから。場合によっては余計に混乱するだけだから。と思ってるんですがわたしだけ…?

(勿論、誰とどんな風に話すかによって全く違うので、ありのままのあなたを受け止めてくれる、信頼できる人に話を聞いてもらうことや、「話を聞くプロ」例えば心療内科の先生、心理カウンセラーの方などにじっくり相談したりするのは別枠だと考えています。「辛さを誰にどのように打ち明けるか」の選定はとても大事なので、ただ闇雲に、人に話せばすっきりするわけじゃないよね、という意味で言っています)

そんなわけで、できるだけ人との連絡も絶った方がいいし、SNSなんて言語道断。携帯の電源も切っておいた方がいいかもしれません。とにかく悲劇のヒーローあるいはヒロインになりきるのが重要(脳内でね)。

「ああ、もう、絶望的だ……」「わたしほんとかわいそう……」みたいな感じになればなるほどいい(脳内でね)。なにせ誰に見せるわけでもないのだから(ここ重要)盛大に落ち込みましょう。

めっちゃ愚痴ったり人のせいにしたりする

今度は、もう、ひたすらに愚痴りましょう。めっちゃ愚痴ります。え、そこまで言う??って自分で引くぐらい愚痴る。ただし、今回もポイントは「一人でやる」ということ。間違ってもSNSに書いたり友達や家族に延々とだらだらと愚痴ったりしないようにしましょう。

これは、単に話を聞く人見る人のエネルギーをものすごく奪う行為だからというのはもちろんのことですが、「こんな愚痴、見た人はどう思うかな……不愉快な気持ちになるよね……」、などと、想像力がある人であればあるほど自分が他人に遠慮してしまうからというのが大きい。人に伝える、というワンクッションを挟むことによって、自分の感情に蓋をしてしまうんですよね。

よくありがちな方法として、ネガティブなことや愚痴っぽいことを、ちょっとオブラートに包んで話す(SNSに投稿する)というもの。なんていうか、、、オブラートに包んだ愚痴とか・・えっ、、それ、本当に愚痴ったことになります?それ言って(投稿して)、本当にすっきりします?しないよね?

(「いや、わたしはSNSに愚痴を書くときオブラートに包んだりしない!思っていることを全部書いちゃうし、それで人からどう思われても気にしない!気にしたことないし!」って言う人は「想像力の欠如」という別の問題かもしれませんね。それに関しては今回は割愛します。)
紙でも、スマホのメモアプリでも何でもいいです。そこに今思っていることを全部書きましょう。
ここで「でもわたしにも悪いところがあったし」とか書きそうになったら要注意(そのフェーズに行くのはまだ少し早い)
とにかく他人のせいにしたり、環境のせいにしたり「わたしは悪くない!!悪いのは○○のあの態度とか、こんな状況になったのも周囲の環境のせいだ!!!」といった、他人のせいにする姿勢を貫きましょう(メモアプリの中ではね)。
何度も言うようですが、絶対に一人でやりましょう。絶対この文章をSNSに投稿したりブログに投稿したりとかはしないようにしましょう。良いことが1個もないから。

やがて愚痴ることに飽きる

上記の工程をもう徹底的にやり込んで、あれ、なんか、ちょっと愚痴るの飽きたな?というかもう愚痴ることないな?感情、もう全部出し尽くしたな?みたいになったら、しめたものです。少なくとも感情面は落ち着いてきているはず。

愚痴を書き溜めたメモを分析する

さらに、少し時間を置いてから、今度は、あの時書いた「愚痴メモ」を冷静に分析してみます。スタンスとしては、「過去の自分との対話」ですね。冷静な自分・アドバイザー的視点で、愚痴メモを見返します。
ポイントは、「もし自分の知り合いが、こういう内容の愚痴を言っていたと仮定して、この人になんてアドバイスしたらいいと思うか?」という視点でアドバイスを考えるのです。
人間関係(家族・恋人・友人関係)の悩みなら、例えば
「○○が悪いということはわかった。じゃあ、なんでそんな人と一緒に今までいたの?なんであの時、嫌だって言うことができなかったんだろう?なんでそんな人と一緒にいることを選んじゃったのかな?」というように。
職場環境に関する悩みなら、
「会社(職場)の対応がひどいのはわかった。じゃあ、そんなひどい職場を、今まで辞めないで続けていたのはどうしてでしょう?」とかそんな具合に。 
その辺までくると、、恐ろしいことに大体「うっわーーー全部!全部、自分のせいじゃん!!!」ってなります。そう、大体のことは全部、自分のせいなんですよね。。そのことを認めてからが始まりであって、ここでようやく具体的な解決策を考えられる段階に入るのかなと思います。

 まとめ

気持ちが落ち込んだときは

  • ネガティブな感情は徹底的に言語化しよう!(ただし人に見せないように。)
  • 第三者的な視点で、ネガティブな感情を分析しよう!
以上です。精神を安定させて生きていきたいですね~~~がんばろう!(自分に言ってます)。ではまた!

自分の意思を尊重しながら、人の意見も受け流しすぎないということ

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今日は、主に「自分の意思を尊重すること」「自分の頭で考えること」「人の意見をどう捉えるか」「自分のことを誰に相談するか」ということについて考えたことがあったので、走り書きですが書いておきたいと思います。

 「ドリームキラー」という言葉を、時々、耳にします。

ドリームキラーとは、「夢を殺す人」、つまり他人の夢や目標達成を阻害する人のことで「あなたには無理だよ」とか「そんなの叶うわけないよ」とか「今のままで充分でしょ?」とかなんとか、心配してる風を装って、夢を阻害するようなことを言ってくる人のことで、実は身近な友人や家族が、アドバイスのつもりで、こうした余計なお世話を言ってくるケースが多いとか。

だから、あなたの夢を邪魔してくる人とは離れた方がいい!そんな人の発言は無視しよう!自分の目標に照準を合わせて、周りに振り回されないようにしよう!というような文脈で語られることが多いイメージです。

私が最初に「ドリームキラー」という言葉を聞いたのは、確かこの本だったかなーと思います。

 

わたし今日からキラキラOLやめてギラギラします! 絶対達成する人になる方法

私は、いわゆる「自己啓発本」ってちょっと苦手だったりもするんですが、、
この本は小説形式で、この本の主人公の浅井美沙が、序盤でキラキラワードに翻弄される感じが、本当に20代前半の頃の私みたいで、む、胸が痛い・・!となったので、心に響いたのを覚えています。

 

と、話は逸れましたが、まあそのようなわけで。

特にアドバイスを求められてもいないのに、人の目標設定や夢に対してとやかく言うことは、タブーである、という風潮が強いので、そういった雰囲気を汲んで、今のご時世、他人の行動に対してとやかく突っ込んだ口出しをしないのが「スマートなこと」で、つまり逆に言うと、たとえば助言を求められて「うーん、その目標はちょっと難しいと思うよー」なんてうっかり言って「あの人はドリームキラーだ!」みたいに受け取られてもイヤだな、という考えから、仮に近しい間柄であっても、本当に思ったことを率直に言うということに抵抗がある人が増えているのかなという気もします。

 

ということは。
たとえば自分が本当に人からの助言を求めたいとき「誰に意見を求めるか」というのを見極めることが、ものすごく大事だということでもあるのかなと思っています。

「自分ではどうしたらいいか分からない、だから人に相談しよう」という発想は、悪いことではないとは思うのですが、耳障りのよいことしか言わない人に「相談」しすぎたり、人の意見を取り入れてばかりでは、どんどん自分の都合の良いものしか見たくなくなったり、自分の本当にしたいことがわからなくなったり、頭と心が混乱してしまうのかなとも思います。

特に私は、ものすごく他人に影響されやすいタイプなので、「人に相談」するということにはものすごく慎重になります。

特に、明確な答えがないようなことに対しては、きちんと自分の頭と心で考えた後で、自分が信頼できる人からの意見も、「あの人がそう言ってるからそうしなきゃ」と鵜呑みにするのではなく「意見として参考にする」という心の持ち方が大事なのだと思っています。

自分の心に問いかけつつ自分で決めていき、時々振り返って「これはやっぱり無理があるな」とか「これはあの人に相談してみようかな」とか「あの人はこう言っていたけれど私はどうだろうか」とか、そういう自分との対話を持つだけの心の余裕を残しておきたいと思う昨今です。

私の勉強法

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何か初めてのことを勉強するとき、私が心がけていることは大きく2つありまして、

  1. まず心理的抵抗を無くすところから始める
  2. 理解できることからやる

の2点です。

まあ実際は「心がけていること」なんて大仰なことではなく「そういうふうにしないと結局勉強が続かない」というだけの話なんですけどね....

 

「心理的抵抗を無くすところから始める」について


私は勉強の要領が全然良いタイプではないな~と学生時代から思っていて、例えば試験勉強をやるにしても、

教科書の、ここと、ここだけ覚えればいいよ〜


なんて先生に言われても


えーーーー?なんで?なんでそんなの覚えないといけないんですか?何のためにそんなのやらないといけないんですか?それをやるとなんか面白いんですかー?


と心の中の懐疑的な私が超うるさいので、仕方なく、導入として、例えば「まんがで覚える〇〇」とか「やさしい〇〇」みたいな教材を読んだり、テレビでやっているそれに関連した特集番組とかを見てみたりして(今だったらyoutubeがありますね)、


ほら、なんだか面白そうでしょう?ね?だからさ、基本がわかったら教科書もそんなに、難しくないからさ、ちょっとずつやってみよう?ね?


と、心の中の懐疑的な私をなんとか説得するところから始めます。これはだいたいいつもそう。何の勉強をするときでもそう。

「理解できることからやる」について

私のようなネガティブな人がいきなり難しいことを無理に理解しようとすると脳が拒否反応を起こしたり、こんなことも理解できないなんて…と暗い気持ちになったりするので、とにかくその時の自分にとって理解できることをやります。

たとえば技術書などを読んでも説明がいまいち理解できないとき「うーん?でもがんばって理解しよう!」と粘ってしまうと、潜在意識で「私ってばこんなこともすんなり理解できないなんて……」と、無駄に自信をなくして時間と感情の無駄遣いになりがちです。

その本の説明のレベルが自分に合ってないのだと早めに見切りをつけて、少し易しめの情報を探して出直すと「さっきのあれはこういうことだったのか!」と、急にわかったりすることもあったりして。わからなかったことがわかる瞬間はすごくいいですね。

プログラミングがゲーム感覚で学べる「コードクロニクル」

 
先日、プログラミングがゲーム感覚で学べる「コードクロニクル」というコンテンツがあることを知ったので、ちょっと遊んでみました。

「心理的抵抗を無くす」という意味でも、「理解できるところからやる」という意味でも、基本事項の復習をするのにはとっても良いんじゃないかと思いました。

「勉強しなきゃ」じゃなくて「またあれで遊びたいな」って思えたなら勉強が勉強じゃなくて遊びになるというのがすばらしいと思います。


今はあらゆる分野のコンテンツが充実しているので、情報に翻弄されがちというのはよく言われますが、どこかの誰かがすすめていたものが他の人にとっても良いものかどうかはわからない。今の自分にとって腑におちるもの、しっくりくるものをその都度選んでいくことが一番大事なのではないかなと思います。

これからも学習方法については試行錯誤していきたいなあと思う所存です。

 

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by ギノ