人の話を聞くのが、あまり得意ではない。
リアクションが下手、とか、気の利いた声かけをできない、といった、二次的な意味ではない(もちろんそれもあるけど)。単純に「人の話を聞いて、正確に相手の言っている内容を脚色なしで脳に取りこむのが難しい」という、そのままの意味だ。
「人の話をちゃんと聞きたい」という気持ちは、わりと強いほうだと思う。確かに「ちゃんと聞こう」と思って聞き始めたはずなのに、ふと気づくと情報がこぼれていく。情報を見失う。
情報を見失うから、自分の想像力で相手の思いを補おうとしてしまって、相手が言ってないことまで勝手に想像したり、勝手に行間を読んだり、余計なフィルターが入ってしまってちぐはぐなことになる。
どういうときに話が聞けないのか、というと、ざっとこんな感じ。
- 相手の話が長い
- 相手の話の中に知らない言葉が何度も登場する
- 話の内容に私が興味を持てない
- 私が相手に対して興味がありすぎる
1~3については、まあ、ある程度しょうがないかなと思っている。対策もそれなりに立てられるので、さほど問題視していない。
例えば、相手が言った言葉の意味がわからないなら「今の○○ってどういう意味?」と質問すればいいし、話の内容に興味が持てないなら、うーん、ごめんなさい。そういうのあんまり良くわからなくて..と興味がないことをさりげなく伝えればいい。相手の話が長すぎる場合は、まあ、途中で切り上げるか何かすればいいし、基本「聞けなくてもしょうがないよね」と思っているからそんなに罪悪感を感じない。
一番、手ごわいのが、4の「相手に対して興味がありすぎるとき」。これはどういうことかというと、相手のことが好きすぎて、相手のことを理解したい!きっと私には!この人の気持ちがわかるはず!という私自身の思いが強すぎて、相手の話している内容ではなくて、自分の体験と勝手に紐づけて、自分の体験のほうを見てしまう。「わかるわかる!私もそうなんですよ!」と言いたくなってしまう。
いわゆる「自分と相手の線引きができてない」という状態だ。私は私、他人は他人であるし、世界は全然違う人間の集合体だからそれぞれの役割分担が成り立つのだし、だから他の人が考えていることを正確に理解するなんて厳密には出来るわけないから、そのためにコミュニケーションというものがあるのに、それがわからなくなってしまうことがある。コミュニケーションを、放棄してしまいたくなる。何も言わなくても、全部分かり合えたらいいのに!なんて、思ってしまう。
だって、皆が全部同じ考えだったら、何も言わなくても全部通じ合えたらすごく楽じゃない?以心伝心、最高じゃない?
と、そんな風に思ってしまうのは、大体心が疲れているときだ。心が疲れて弱って不安になっているから、他人の考えと同一化して、安心したくなるのだと思う。他人の話をきちんと聞く、というのは、元気じゃないとできない。そういうことだと思う。厄介なのは、この「疲れている」という感覚に、自分では気づきにくい場合があるところだろうか。
「疲れたら休む」のは人間の義務だと思っているんだけれど、本当に疲れていると自分が疲れていることに気づかなかったりするところがむつかしいな、と思う。
コミュニケーションが無意識のうちに面倒になっているときは、コミュニケーションから離れて疲れを取るのが特効薬だと思う。きちんと他人から距離を取ることができれば、またそのうちコミュニケーションを取りたくなるし、他人の話を他人の話として捉えることができるようになる。
必ずしも、休む=身体を休める、ということではなくて、疲れているときは「自分が何に疲れているのか」を見定めて、それと逆のことをすると回復に効果的な気がする。コミュニケーションに疲れてしまったなら、コミュニケーションを取らなくてもできること(たとえば読書とか音楽鑑賞とかを)するとか。どういう休み方がそのときに適切なのか、に気付けるようになると効率的だなと思う。