めくるめく雑記帳

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『小さいおうち』(中島京子著)を読んで思う、人の話を聞くことのあやうさ

 

たとえば誰かと話をしていて、相手の話が何だか的を得ないままだらだらと続き、そもそも何で私にそんな話をしてくれるんだかその真意がさっぱりわからず、「結局あの人何が言いたかったんだろう?」と思っていて、数年後、そのことなどすっかり忘れていたのに何かのきっかけで、

あれ、もしかしてあのときあの人は、本当はこういうことが言いたかったのでは?

という具合で、脳内に閃光が走るような具合で理解が訪れ、ああああああ何であのときもう少しちゃんと適切に耳を傾けることができなかったのだろう私は、と後悔の念に駆られる、ということが時々ある。

小説『小さいおうち』(中島京子著)は、最終章を読むまで、「戦時下を生きていたひとりの女性・タキさんの回想録を、淡々と楽しむ作品」なのだと思っていた。戦前の日本の、世間では大変なことが起きつつあるのはわかっているがどこか楽観的だった庶民の日常を、ふふふ、と言いながら楽しんで読んでいればそれでよいのだと思っていた。次第にある秘密が少しずつ明らかになっていくけれど、それでもやっぱり「さりげない日常のなかに見え隠れするちょっとした事件」程度の認識を超えなかった。

それが最終章で一気に見え方が変わる。え、今まで私は何を読んでたの?というくらい、それまで一人称で語られていたときにはタキさんの伝えたかったことがなにひとつわかってなかったということに気づかされる。物事は誰の視点によってどのように語られるかによってまるで伝わり方がこんなに変わる、ということの見せ方が現実味を帯びていて少し怖かった。

この小説にでてくるような、戦争さえなかったら楽観的でふわふわと暮らしていけたであろう人たちは、戦争という陰惨な出来事によって散り散りになってしまった。その陰惨さが、なにひとつ陰惨な描写が出てこないのに重い。

大切な人たちから遠ざかってしまった後だからこそ、昔の、なんてことない日々の話を書き残して思い起こすことによって安らかな気持ちを思い出そうとしたであろうタキさんの気持ちが痛すぎて苦しかった。

この小説の構造は、
何か言いたいことがあって文章を書き始めたはずなのに、一番言いたかったはずのことを言えない」、という心理の描写によって支えられていると、私は思った。

こういった状況はなぜ起こるか、というと、

  1. 思いが溢れすぎていてうまくつたえられない、
  2. 大切すぎて自分だけの秘密にしておきたい、
  3. 自分でも自分の気持ちがよくわかっていない 

のような理由が挙げられると思っているのだけれど、これらが全部ものすごい説得力と必然性をもって読み手に迫ってくる。そのまま小説の構造としての奥ゆかしさに繋がっているのがすごい。

意味合いは全く違うかもしれないけれど、ここに描かれる戦前の日本が、今の日本の情報が錯綜する感じとか、大変なことが起きている傍らでどこか楽観的な雰囲気とかに似ていてどこか不気味さも感じる。読めてよかった。