※全面的にネタバレした上で感想を書いていますので、物語の内容を知りたくない方はこの先はお読みにならないでください
「恋愛小説」として見た「スプートニクの恋人」
22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。――そんなとても奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー!!
内容(「BOOK」データベースより)
スプートニクの恋人/村上春樹 #読了 #再読
— めぐみ🍀 (@megumi_log) 2023年2月5日
ひさしぶりに読み返して「こんな話だったか!」と驚いた。終盤の「にんじん」のエピソード、これ必要?と昔は思った記憶があるけど、この結末にたどり着くには必要不可欠なエピソードだと思うことができた。再読すると物語は別の姿になるなー!すごい。 pic.twitter.com/JTOaIG3J8N
むかし大学生のとき読んだときのわたしの感想はたしか「せつないけど美しい話」「なんか唐突な結末だなあ(どのように受け止めたら……?)」といったライトなものだったと記憶しているのだけれど、いま再読してみたら感想が全然違いました。最高でした。再読すると別の物語として再会できますね。
ストーリーの流れはいろんなところに書いてあるし、あらすじだけを追ってもあまり意味がないのでここでは割愛するのですが、特に中盤当たり、主人公の「ぼく」、すみれ、ミュウ、の想いがすれ違うさまとか、すみれが姿を消してしまうあたりとか、ミュウのトラウマの深さが明かされるあたり、とかもう読んでて死ぬかと思いましたよね! 致死量が! 半端ない!
「好き」にもいろんな好きがあるということ、みんなお互いのことが好きで必要としているのに「すれ違う」し、お互いがお互いの助けになりたいと強く思っているのにそれが叶わない。人はどうしてこんなに孤独にならなくてはならないのでしょうねえ。つらい……
考えてみれば、わたしが最初にこの小説を読んだころは確か主人公の「ぼく」や、すみれと同じくらいの年齢だった気がしますが、いまや自分がミュウとほぼ同年齢ですからねえ、なんか孤独感や喪失感、願いが成就しないことへの虚無感というのがより真実味をもって感じられるようになったのかもしれませんね。
また、村上春樹さんの小説の主人公はだいたい息を吸うように不倫や浮気をしますが本作においてもやはりそうで、まあそのへんは「心にさみしさやむなしさを抱えてて、その心の穴を埋めようとすると、ひとはおかしな行動をとる場合があるよね」くらいで捉えておけばよろしいかと思っているんですがどうでしょうね?(なにが)。
恋愛=「不条理なもののメタファー」
これは恋愛小説ではあるけれど、恋愛を「思い通りにならない不条理なもの」のメタファーと捉えると、必ずしも恋愛のことだけを描いた小説ではないとも言えます。
「わたしはこちら側に残っている。でももう一人のわたしは、あるいは半分のわたしは、あちら側に移って行ってしまった。」
「どちら側のイメージが、わたしという人間の本当の姿なのか、わたしにはもうそれが判断できなくなってしまっているということなの」
こちら側とあちら側とは?
- あちら側= ここじゃないどこか(理想郷みたいなところ)
- こちら側= 現実世界(一筋縄ではいかない不条理な世界)
小説家志望としてのすみれ
「君に必要なのはおそらく時間と経験なんだ。ぼくはそう思う」「時間と経験」とすみれは言って、空を見上げた。「時間はこうしてどんどん過ぎ去っていく。経験? 経験の話なんかしないで。自慢じゃないけどわたしには性欲だってないのよ。性欲のない作家にいったいどんなことが経験できるっていうの? そんなの食欲のないコックと同じじゃない」
小説家志望だけど、一度も小説を最後まで書き上げられたことがないすみれ。書きたいことはたくさんあるけど、自分の文章を後から読み返したときに、どこを残して良くて、どこを割愛していいかわからない。
これはわたしの主観だけど、熟成された読み手としての自分が後から自分の書いたものジャッジしたときに「こんなの小説とはいえない」「わたしが書きたいのはこんなんじゃない」とか思っちゃうのでしょうか。(思い入れが強くて、なまじ知識があることって、自分が自分に課したハードルが上がっちゃう、みたいなのありますよね……)
しかし、そんなすみれも、①ミュウに一筋縄ではいかない「初恋」をする→②ミュウの助けになりたい一心でそれまでの自分を捨て去る→③ミュウに受け入れられないであろうことを予期しつつもそれでも飛び込む(そのことを誰にも相談しないでひとりで決める)→④思い破れて姿を消す→⑤(詳細はわからないけどとにかく)帰ってくる。
という流れを経ることによって、序盤のすみれとは比べ物にならないくらいの精神的成長がなされていることでしょう。(その過程はだいぶ危うい危険をはらんだものではあったけれど)
このストーリーは「小説家志望のすみれ」の物語として読んだ場合、この結末のあとのすみれはちゃんと最後まで小説が書けるだろうな、という気がします。(もちろん「ぼく」とも他者としていい関係が築けるんじゃないでしょうか。きっと。)
衝突→そして流血が示すもの
分かちがたくあるものを、分かちがたいこととして受け入れ、そして出血すること。銃撃と流血。いいですか、人が撃たれたら血は流れるものなんです。
もしミュウがわたしを受け入れなかったらどうする?そうしたらわたしは事実をあらためて呑み込むしかないだろう。「いいですか、人が撃たれたら、血は流れるものなんです。」血は流されなくてはならない。わたしはナイフを研ぎ、犬の喉をどこかで切らなくてはならない。
どんなことにだって語るべきときがあるのよ、とわたしはミュウを説得する。そうしないと人はいつまでもその秘密に心を縛られ続けることになる。
という記述がすみれの文書にもあるように、人に語ることで昇華されることの作用は大きいと思うのです。物事を隠して人に語らないまま秘密にしていると、ずっと心に蓋をしてしまうことになる。
おわりに