めくるめく雑記帳

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村上春樹『スプートニクの恋人』―「こちら側」と「あちら側」が示すものとは?



「恋愛小説」として見た「スプートニクの恋人」

22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。――そんなとても奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー!!

内容(「BOOK」データベースより)

むかし大学生のとき読んだときのわたしの感想はたしか「せつないけど美しい話」「なんか唐突な結末だなあ(どのように受け止めたら……?)」といったライトなものだったと記憶しているのだけれど、いま再読してみたら感想が全然違いました。最高でした。再読すると別の物語として再会できますね。

ストーリーの流れはいろんなところに書いてあるし、あらすじだけを追ってもあまり意味がないのでここでは割愛するのですが、特に中盤当たり、主人公の「ぼく」、すみれ、ミュウ、の想いがすれ違うさまとか、すみれが姿を消してしまうあたりとか、ミュウのトラウマの深さが明かされるあたり、とかもう読んでて死ぬかと思いましたよね! 致死量が! 半端ない!

「好き」にもいろんな好きがあるということ、みんなお互いのことが好きで必要としているのに「すれ違う」し、お互いがお互いの助けになりたいと強く思っているのにそれが叶わない。人はどうしてこんなに孤独にならなくてはならないのでしょうねえ。つらい……

考えてみれば、わたしが最初にこの小説を読んだころは確か主人公の「ぼく」や、すみれと同じくらいの年齢だった気がしますが、いまや自分がミュウとほぼ同年齢ですからねえ、なんか孤独感や喪失感、願いが成就しないことへの虚無感というのがより真実味をもって感じられるようになったのかもしれませんね。

また、村上春樹さんの小説の主人公はだいたい息を吸うように不倫や浮気をしますが本作においてもやはりそうで、まあそのへんは「心にさみしさやむなしさを抱えてて、その心の穴を埋めようとすると、ひとはおかしな行動をとる場合があるよね」くらいで捉えておけばよろしいかと思っているんですがどうでしょうね?(なにが)。

恋愛=「不条理なもののメタファー」

これは恋愛小説ではあるけれど、恋愛を「思い通りにならない不条理なもの」のメタファーと捉えると、必ずしも恋愛のことだけを描いた小説ではないとも言えます。

ミュウが当初思い描いていた「とにかく一流のピアニストになりたいという思い」が成就しなかった喪失感も、不条理さの象徴であると思うのですね。もちろん技能的・物理的にピアノの腕をあげることはは可能であったのかもしれないけれど、それが対外的な評価や商業的な成功などに結び付くかどうかは別の話。
ミュウが「スイスのフランス国境に近い町」に住んでピアノの勉強をしていたときの不安感・最初は心地よかった生活が少しずつ不快感におかされていった絶望感・観覧車に閉じ込められた事件、を皮切りに、ミュウは、
「わたしはこちら側に残っている。でももう一人のわたしは、あるいは半分のわたしは、あちら側に移って行ってしまった。」
「どちら側のイメージが、わたしという人間の本当の姿なのか、わたしにはもうそれが判断できなくなってしまっているということなの」
という状態になり「音楽を作り出すための力が失われて」しまう。
ミュウの欲求や願いは、すでに失われてしまったものとして描写されていて、真の欲求や野望や願いを持つ自己そのものが「あちら側」へ行ってしまって戻ってこないものとして描かれています。ミュウが「永遠」とか「絶対」とか「二度と~できない」と言い切る様は、すがすがしくもあるけれど見ていてとてもつらい。
ミュウの傷つきや絶望感や世界への不信感は根が深いとも言えますが、その「傷つき」が癒されて、なんらかの形でミュウが「再生」する物語も読んでみたいなと個人的には思います。(まあでも、そうなってくるとこの小説は1冊ではおさまらないだろうな……)
そもそも、いろんな要素が混在しているのが人間というものであって。どっちが本当とか、どっちが嘘とかそういうことじゃないんだと思うんですね。それを受け入れたときにミュウの再生は行われるのかなという気がしますが。どうでしょうね。

こちら側とあちら側とは?

前述のミュウの話にもあるように、本文中に何度も「こちら側」「あちら側」というキーワードがでてきます。
おそらくこれは、
  • あちら側= ここじゃないどこか(理想郷みたいなところ)
  • こちら側= 現実世界(一筋縄ではいかない不条理な世界)
なんじゃないかなと個人的には思います。
現世を捨てて、ここじゃないどこか(理想郷みたいなところ)へ行っちゃいたい! 面倒なこと投げ出したい! という欲求にどうやって折り合いをつけて、ここ(現実世界)でうまいことやっていくか、というテーマが流れているように思いました。

小説家志望としてのすみれ

序盤のすみれはどういう人かというと「経験値は低いのに知識と感性と文才は人一倍ある」人物として描かれています。
「君に必要なのはおそらく時間と経験なんだ。ぼくはそう思う」
「時間と経験」とすみれは言って、空を見上げた。「時間はこうしてどんどん過ぎ去っていく。経験? 経験の話なんかしないで。自慢じゃないけどわたしには性欲だってないのよ。性欲のない作家にいったいどんなことが経験できるっていうの? そんなの食欲のないコックと同じじゃない」

小説家志望だけど、一度も小説を最後まで書き上げられたことがないすみれ。書きたいことはたくさんあるけど、自分の文章を後から読み返したときに、どこを残して良くて、どこを割愛していいかわからない。

これはわたしの主観だけど、熟成された読み手としての自分が後から自分の書いたものジャッジしたときに「こんなの小説とはいえない」「わたしが書きたいのはこんなんじゃない」とか思っちゃうのでしょうか。(思い入れが強くて、なまじ知識があることって、自分が自分に課したハードルが上がっちゃう、みたいなのありますよね……)

しかし、そんなすみれも、①ミュウに一筋縄ではいかない「初恋」をする→②ミュウの助けになりたい一心でそれまでの自分を捨て去る→③ミュウに受け入れられないであろうことを予期しつつもそれでも飛び込む(そのことを誰にも相談しないでひとりで決める)→④思い破れて姿を消す→⑤(詳細はわからないけどとにかく)帰ってくる

という流れを経ることによって、序盤のすみれとは比べ物にならないくらいの精神的成長がなされていることでしょう。(その過程はだいぶ危うい危険をはらんだものではあったけれど)

すみれにとって最愛の人(ミュウ)に「求められない経験」というのは、死にそうなくらい辛かったに違いありません。すみれは忽然と姿を消してしまうわけだけれど、ここでの失踪はメタファーだとわたしは思っています。なにかショックなことがあったときって、「話しかけられても心ここにあらず」みたいな状態になることってありますよね。

このストーリーは「小説家志望のすみれ」の物語として読んだ場合、この結末のあとのすみれはちゃんと最後まで小説が書けるだろうな、という気がします。(もちろん「ぼく」とも他者としていい関係が築けるんじゃないでしょうか。きっと。)

衝突→そして流血が示すもの

分かちがたくあるものを、分かちがたいこととして受け入れ、そして出血すること。銃撃と流血。
いいですか、人が撃たれたら血は流れるものなんです。
もしミュウがわたしを受け入れなかったらどうする?
そうしたらわたしは事実をあらためて呑み込むしかないだろう。
「いいですか、人が撃たれたら、血は流れるものなんです。」
血は流されなくてはならない。わたしはナイフを研ぎ、犬の喉をどこかで切らなくてはならない。
物事をあるべき方向に流れさせるには半ば暴力的なやり方を使うことが必要だ、という意味あいのことが、「流血」とか「喉を切る」といった比喩表現でたびたび出てきます。
小説家志望でありながら「小説を完結させる」ことができないすみれも、また、すみれのことしか考えていないのに「ガールフレンド」(不倫相手)との不倫関係をずるずると続ける主人公も「物事をあいまいなままにして、結論を出さないまま泳がせている」という意味では共通しています。
それを、「半ば暴力的なやり方」で終わらせることによって、物語は結末に向かっていく。すみれは、ミュウへの想い(ありのままの自分の欲望をそのままミュウに受け入れてほしいという想い)を断ち切ることによって、主人公は、不倫相手との関係を清算することによって、「本来の自分自身」を半ば暴力的なやり方で取り戻す流れをつくるわけです。
また、主人公が「比喩としての暴力」を行う(つまり不倫相手との関係を清算する)少し前に出てくる「にんじん」と呼ばれる少年と、主人公のエピソードがとてもいいんですね。
この少年は学校では静かで成績もよく問題などは起こさない生徒でありながら万引き事件を繰り返すわけですが、なんていうかこの子が起こした困った事件って「こっちを見て」っていうサインよね……たぶん。主人公は、この少年に対して「いままで誰にも言えなかった本音」を打ち明けるわけです。

どんなことにだって語るべきときがあるのよ、とわたしはミュウを説得する。そうしないと人はいつまでもその秘密に心を縛られ続けることになる。

という記述がすみれの文書にもあるように、人に語ることで昇華されることの作用は大きいと思うのです。物事を隠して人に語らないまま秘密にしていると、ずっと心に蓋をしてしまうことになる。

子供が真実を見抜く感性というのはするどいから、おそらく母親が自分に対して何かを隠してることや、「自分に対して腫れ物にさわるような感じで接してる感じ」というのはわかっていましたよねきっと。でも先生(主人公)が、誰にも言えなかった本音を打ち明けてくれてるんだということはわかったんじゃないかな。先生は「先生」という立場としてお説教をするとかじゃなくて、ちゃんと本当のこと言ってくれた、ってことが伝わったんじゃないかと。
それまで、すみれだけが世界のすべてで、すみれのことしか考えられないまま「新学期なんてどうだっていい」って言っちゃってた主人公ですが、主人公が不器用なやり方ながらもこの少年にきちんと向き合った(つまり現世である「こちら側」にきちんと向き合ってコミットしたことによって)、物事が正しい方向に向かう流れみたいなものができたんじゃないかな、とわたしは解釈しています。

おわりに

……というようなことをいろいろ書いてしまいましたが、もうね、とにかく最高でした(ここへきて説明が雑)
なんというのかな。思ったのが「つらい試練を乗り越えたり、逃げてるものに向き合ったあとじゃないと、自分の道を進むことってできないんだよね」ということですね……(遠い目)
無条件の自分(の愛や欲求)を受け止めてほしいって欲求を認めつつ「そんなん、受け止めてくれる人なんていないよ? ふつう」というのを認めて、断ち切って、孤独でも、それを他者に埋めてもらおうとするのではなく、自分で自分の頭をなでてあげる、的な?
あちら側(理想)ばかりに思いを馳せるのではなく、こちら側(現実)にきちんと向き合って、現実世界で出来ることを不器用なやり方でもいいからやってみて、それができたときはじめて、ただ孤独感やさみしさを紛らわすためじゃなくて「それでも本当にあなたが必要」って思った人とコミットできるステージにあがれるのではないかと。
そんなことをいろいろ考えました。人生って!一筋縄ではいかない……!