めくるめく雑記帳

生活記録/買ってよかったもの/読書感想

問題解決とか鬼滅の刃の話とか

わたしはすぐ家の中でスマホを見失う。

最近わたしが着る服にはポケットというものがついてないものが多いので、無意識のうちにスマホを台所とかトイレとか棚の上とかにおいて放置し、さあ出かけよう、と思ったときに、スマホが見つからない!ということに気付き、どこだっけ?と探して数十分を無駄にすることの!なんと多いことか!

という問題を解決すべくこれを買った。

 

 

スマホにストラップをつけて首から下げられるようにできるというもの。

1か月くらい使ってみたけれど、めちゃくちゃ便利。なんで今まで買わなかったんだろうと思う。これでここしばらくスマホを見失っていない。

こういう、ちょっと調べれば便利なものが世の中にあるだろうっていうことはうすうす気づいてるのに特にどうにもしようとしてないことっていっぱいあるな〜と思う。

 

あとさっきツイッターでこんなことをつぶやいたんだけどこれも同類ですね。

 

気が付くとブラウザのタブを開きすぎてしまうのだけど、現在開いている全部のタブをひとつのタブにまとめてくれるGoogleChromeの拡張機能があることをいま知って震えている(なんでいままで使わなかったんだろうすっごい便利だ)https://t.co/VtYho4ECKj

 

これ解決するにはどうしたらいいんだろ?ってちょっと力を使ったらすぐ解決することっていっぱいあるのだろうけど、そのまえに「自分が困っている」っていう認識自体が希薄なことっていっぱいあるよねと思う。わたし、今、困ってる!ということを素直に自覚することから問題解決は始まるよなと思う。

 

 

最近、ようやく鬼滅の刃を全部読んだ。というか、読み返してる最中。

わたしはアニメから最初に見たので、それがアニメ作品であることをふつうに享受していたけれど、原作を一通り読んだ今、えっ、いいんですか!?こんな!すごい作品を、アニメで!しかも!あんなハイクオリティな映像で!楽しめるなんて!えっしかも!続編も!もうすぐ、見られるんですか!!みたいな感じになってる。お得感がすごい。

わたしの脳内ブームはたぶんしばらくつづくので、他の作品は気持ち的に読めなくなっている。

 

 

鬼滅の刃を読み返すと毎回違う発見があってすごいな〜と思うけれど、特に「必然性」とか「使命」というものについて考えさせられる。なんのために強くなって戦うのか、なんのために負けてはならないのか、という、必然性とか使命感。

あと生と死というものの概念についても。死んだら全部終わりだよ、じゃなくて、その人が生きていた思い出が今生きている人を支えていて、それが連鎖しているという概念がいいなあ。

恐怖や、ほんとうなら目を伏せてなかったことにしたい出来事にいかに対峙するかというテーマについても考えさせられる。なにより鬼殺隊のみんなが限界を超えてがんばってる姿を作品中で拝むことで、自分もこうしちゃいられないわ!やることやらなきゃ、できることやらなきゃ、って思いになるので元気になる。

どういう切り口で楽しむかは人それぞれだと思うしものすごくいろんなテーマが含まれていると思うのだけれど、とにかく大ヒット作品のすごさというものを感じる。

強い言葉とのつきあい方を考える

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インターネットで、日常的にいろんな情報を目にしていると「あれ、この話、誰が言ってたんだっけ..?どこで読んだんだっけ?書籍だっけ?誰かのブログだっけ?Twitterで流れてきたんだっけ..?」というような、出典不明な、ちょっと自己啓発っぽい名言っぽい言葉が、残像のように脳内に残っているということがよくある。

この「誰がそれを言ってたのか、わたしはそれをどこで見たのか」が不明な名言っぽい言葉って、これ、なかなか曲者だなあと思ったりするのです。

というのも。

この情報化社会において、出典がはっきりしないにもかかわらず、読者(私)の心に、ずっと残り続けている言葉って、なんというか、相当、人の心を動かす力がある、インパクトの強い情報・文章だってことだと思うのです。

 インパクトの強い言葉の雰囲気や説得力に引っ張られて、自分の状況を照らし合わることもなく、自分の頭で考えないようになってしまうのってちょっと怖いなと。

たとえば。

"物やサービスを買うか・買わないかで迷ったとき、「値段が高いか安いか」を判断基準にするのはよくない。値段に左右されず、本当にその商品がほしいならたとえ値段が高くても買ったほうがいいし、必要がないならたとえ安くてお得感があっても買わないほうがいい"

という話を、どこかで聞いたことがあります。(うろ覚えなので細部は少し違うかもしれない..)。

最初にそれを見たときは、なるほど~、と一瞬納得しかけたのだけど、よく考えると、いやいや、ちょっと待ってよと思うわけです。

たしかに、そんなに欲しいわけでもないものを「安くてお得」だからという理由で衝動的に買っちゃうのはよくない。これはわかります。
でも、たとえば全然お金に余裕がない人が、これほしいから~、という理由で予算オーバーのものをばんばん買っちゃってもいいのか、といったら、それは違うよね?と思うわけです。
 
 
大抵のことって、すべて「その人による」「そのときの状況による」としか言いようがないことだらけだと思うけれど、
「なんでもその人による」「なんでもそのときの状況による」みたいな言葉は、えてして言葉としては印象が薄ーくなってしまうので、あんまり"インターネット映え"もしないし、強めの、言い切り型の言葉のほうが広まりやすいのかもしれないと思う。

印象に残りやすい言葉は、知らず知らずのうちに自分のなかの固定観念や思い込みをなんとなく形成してしまっていることがあるので、都度、自分の頭で考えることが大事だなあ、と思ったのでした。

 

公園と恋愛関係とスピリチュアルの話

昨日、夫と娘と一緒に散歩がてら近所の児童公園へ行った。

 

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これは娘の謎の作品。どんぐりがいっぱい落ちてた。

我々の他には誰も人がいなくて「公園というのはなんと牧歌的かつ開放的な場所なんでしょう」と思う。

昔、占いだったか風水だったかのなにかスピリチュアル的な本で、「公園という場所は"大地のエネルギー"が強いから、恋愛関係を深めたいときのデートには意外と向かない」「大地が、二人の間にある雰囲気を吸収してしまう」みたいなこと(詳しいことは忘れた。ちょっと違うかも)が書いてあったのをふと思い出す。

ちなみに私は、スピリチュアルが好きかどうかと聞かれたら「今はどっちかというと嫌いだけど、ただ若かりしときは占い大好きっ子だったから、そういうの好きな人の気持ちもわからんでもないよ~」くらいの立ち位置です。

昔、それを見たときは「なんで公園がデートに向いてないのさ公園でのデートって鉄板でしょ」と思ったんだけど、

まあ大地のエネルギーがどうたらの話は置いといて、確かに公園という場所は、この人との関係性を深めたい!っていうときのデートには向いてないんかもな。とふと思ったりする。

なんていうんですか、公園に限らず、自然がいっぱいの解放的な場所って、一緒にいる人が誰であるかっていうことはそんなに関係なく、誰と一緒でもそこそこ楽しめちゃうし開放的な気持ちになれてしまう気がする。

でも、今日はこの人との仲を深めたい!ってときは「間接照明とかで雰囲気づくりしてくれてある隠れ家的居酒屋の個室」とかのほうがよさそうよね。仲が深まりそうよね。

公園ってその対極にあるよね。雰囲気として。

 

 

ちなみにうちの夫は昔からスピリチュアルとか占いとかが生理的に受け付けない人なので、

私が、占いの話とか「大地のエネルギーがね」みたいなワードを出すと

 

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こんな感じの顔を毎回していて、それがあまりにもおもしろいので、私はそのげんなりした顔を見たいがためにわざわざスピリチュアルっぽい言葉をあえて夫の前で言うようなところがある。 

 

なんてことない日記(家庭生活編)

なんてことない日記というものを時々書きたくなる。ので書いてみた。 

 

1月24日(日曜日)

息子のズボンを買いに行く。

レジ横のコーナーで、推定2歳くらいの男の子と、そのおばあちゃんがしている会話が聞こえる。 おそらくママは何か別の用事があってどこか別の場所にいて、このあと合流するのを待っているようである。

おばあちゃん「だめよ〇〇ちゃん、今日はおもちゃは買わないよ、この前もおんなじようなの買ってもらったでしょ」 (※すごくやさしい口調)

男の子「やーだ」 (※甘え口調)

おばあちゃん「でもほら、ママと約束したでしょ、ほら、こっちのお菓子だったら買ってあげるから、ね」 (※すごくやさしい口調)

男の子「やーだ、こーれ。これがいい」 (※甘え口調)

というやりとりを、ずーっと5分くらい繰り返している。

微笑ましすぎてにやにやする私(他人)

男の子目線で「がんばれ!あともう一押しすればおばあちゃんおもちゃ買ってくれるかもよ!?」と思う私と、おばあちゃん側の心情で「ママ!そろそろ来てあげてください!」と思う私のせめぎあい。

ほどなくしてママ登場。 なぜか胸を撫でおろす私(他人)

うちの子にもああいう時期あったな。 永遠に続くと思っていた時期は永遠じゃないんだな。

 

1月25日(月曜日)

◇家事を可視化したくて「家事表」というものを作ってみた。

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 印刷して台所に置いて使ってみたらなかなか良い感じ。やった人の名前を各タスクの横に書く想定。

目的としては

・掃除機をかけるのも、風呂そうじも、別に毎日するほどじゃないと思っているんだけれど「あれ、前回いつやったっけ?」となりがちなので、前回やった日を忘れないようにするため

・家事分担のため。(でも事前にきっちり決めておくほどでもないので、やったときは、やった人の名前を各タスクの横に書くことで、家事分担のバランスが取れたらいいなという目論見

・重複防止のため(あ、私もトイレ掃除したけど、夫もトイレ掃除してたのかー、みたいになりすぎないように)

もうちょっと使ってみて様子をみてみることにする。

 

◇息子「漢字練習が嫌いすぎて宿題やりたくない」と言う。

「じゃあさ、一行書き終わったら、みせて!そしたらママとぎゅーーー!ってしよ?」と提案したら、一行終わるごとに小走りで見せに来る。「おおおおおおおお書けてるううううう!いいね!上手!!!」と大げさに言いつつ、熱い抱擁を交わす。がぜんやる気を出す息子。単純すぎる。

あからさまに娘が「あーお兄ちゃんとばっかり」と言って拗ね始める。お??と思い、娘に事情を説明する(そうだよね、今ママといっしょに遊んでいるのにお兄ちゃんが来たとたんママが急に興奮してお兄ちゃんとぎゅーってし始めたらわけがわからないよねえ、かくかくしかじかでお兄ちゃんは漢字の練習がイヤすぎて、でもこうやってママとぎゅーってするとがんばれるとのことなのでそうしているんだ。だからもちろんあなたが大好きだ)娘は少し納得した様子。娘ともさらに「おおおおお大好きだよおおおおおおう」という熱い抱擁を交わす。

 

1月25日(火曜日)

◇娘の幼稚園、今日はお弁当を持って行く日。デザートにりんごを入れてほしいという。

◇「りんごを弁当に入れるときは変色防止のため塩水につけるもの」と思っていたが、ネットで調べたらはちみつにつけた方が効果的というのを知る。塩水につけたりんご、味が変わっちゃうんだよなあ。と思っていたので、これはいいな

自分の中の常識というものがある。 「こういうときはこうするもの」みたいに。

それをわかったうえで「もっといいやり方ないかな?と疑ってみることができる」のは、わりと心に余裕があるというバロメーター。

娘は「お弁当を持っていく」というだけでものすごく喜んでいて「今日は!!!お弁当を!!!持っていく日!!!!」と言って起きてきた。すごいな。これだけでこんなに喜べるのか。

自分で選べるということ

今日とても寒い。

コロナとか関係なく、毎日寒すぎるので、できるだけ外に出たくないです。

今朝、息子のクラスの時間割を見たら、今日は1時間目が体育だと書いてあった。

「1時間目から体育かあ・・寒いんだよね校庭・・」

と言いながら登校していった。

ふと「子供は環境を選べないんだよなあ」ということを思った。

子供であるうちは、生まれた家庭、地域によって通う学校が決まっていて、クラスとか時間割が自分の意志とは関係なく決められている。

そりゃあ大人だって、急に仕事を休んだり仕事の内容をころころ変えたりはできないけど、その仕事自体を選択したのは自分自身だ。

人生は選択の連続なんていうけれど、大人になるということは、自分のしたいことを自分で選べるということなんだなあ、ということをふと思う。

そんなわたしは、生活の中の些細なことを「これが好きだから」とか「これがしたいから」じゃなく、つい惰性でなんとなく選んでしまうことが多いので、もっと意識的に選択したいと思っている。

たとえば炒め物をつくるとき、つい何も考えず「いつもの味付け」にしてしまうのを変えるとか、たまにはオイスターソースを使わないでみるとか、そういうところから。(オイスターソースさえ入れればおいしくなると思っているんです)

https://twitter.com/mgmgmgxxxx/status/1350738418716737536

 

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

後ろめたさを手放していきたいという話

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今年の個人的な抱負は、不要な罪悪感を手放すということだったりする。

 

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前に「漠然とした後ろめたさ」についての話は、このブログにも書いたのだけど、

 

www.megumi-log.com

 

こういった「後ろめたさ」や「罪悪感」って呪いだと思う。

呪いから解放されることができないと「自分が好きではないことや苦手なことも受け入れなくてはいけない」という発想になってしまいがち。知らず知らずのうちにハードモードを選んでしまうような生き方はできれば避けたいなあと思うのです。

 

「今思えば、そんなことに後ろめたさを感じる必要なんてなかったな」という「漠然とした後ろめたさシリーズ」が他にもいろいろあるので書き出してみる。

 

王道の少年マンガにはまることができなかった後ろめたさ

10代のころ、少年マンガに興味を持つことができなかった。

ドラゴンボールも、スラムダンクも、ワンピースも、同級生が「絶対おもしろいから」と単行本を貸してくれたけど「おそらく、ここがいちばんの盛り上がるポイントなんだろうな」と思われるバトルシーンなどを全部飛ばし読みしてしてしまい「なんかごめんね・・」と思いつつ返却したりしていた。

「友情・努力・勝利」といった、人間としての原動力になりそうなテーマに興味をもてないなんて、自分は何かおかしいのではないか?という不安と自分への嫌悪感があった。 

 

 

運動部に所属したことがない後ろめたさ

中学生の頃、私の通っていた学校ではだいたいの子は運動部に入っていた。わたしは運動が嫌いすぎたので「ただでさえ嫌いなことを!人に強制されて毎日するなんて!絶対の絶対にいや!!!!」と思っていて中学高校とずっと文化部に所属していた。

そこまで明確にイヤだったのなら別にそれでいいじゃないのと思えればよかったのに「クラスの大半の子がやっていることが自分はできないんだな」という後ろめたさに繋がっていた

「やっぱりさあ!苦手なことにも向き合っていかないといけないんじゃないの??」と、もうひとりの暑苦しい自分が言っている感じだった。

 

感情の分析

でもこの前「鬼滅の刃」を見ていて「な、なんておもしろいのだろう..」と思いながら気づいたことがある。
 
私は、そもそも血が出たりする残虐なシーンは、自分まで痛い気持ちになってしまうので苦手だ。
だからバトルシーンなどを見ても「かっこいい」「興奮する」といった感情よりに「痛そう」「なんか大変そう」という気持ちが先に立ってしまうので気持ちにブレーキがかかってしまうことが多い。
さらに自分には「夢への冒険」であるとか「強い敵を倒すのがかっこいい」という発想が希薄だ。
 
ただ、鬼滅の刃に関しては、主人公である炭治郎が「家族を殺され、妹を鬼にされる」というところからストーリーが始まるので、私にも「うん、それじゃしょうがないよ・・戦わざるをえないよ・・」と納得した状態で入ることができた。
「本当は戦わないですむなら戦わないに越したことはないのだが、大事なものや人を守るために、状況的にそうせざるをえない宿命を持った主人公」が「やむをえず戦う」というストーリーにははまることが多い(『るろうに剣心』もその理由で好き)

自分は「マイナスをゼロにすること」には必然性があると思っているけれど「ゼロをプラスにする」ことを優先度低とみなしがちなんだと思う。
 
こんなふうに「なんか興味が持てないな」「理由はわからないけどなんか嫌い」といった曖昧な感情も、細かく分解していくことで自己理解につながる場合がある。違和感は自己理解のヒント
 

 

後ろめたさの正体

 

さらに学生時代に感じた後ろめたさは、

  • 「苦手なものは克服したほうがいい」
  • 「わからないものも努力してわかるようにならなくてはいけない」
  • 「みんなと同じようにできなければいけない」

という「みんなと同じようにできなくては」という思い込みから派生しているものが多い。

 

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まとめ

 

出会い方や、そのときの精神状態によって物事への印象は大きく変わる。

 

自分の持っているネガティブな感情や違和感についても、普段はなかなか自分でも「どうしてそう思うのか」がよくわかっていなかったりする。自分の感情を棚卸しして分析する時間を、今年は意図的に持つようにしてみたいと思う。

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同時に複数のことをするということ

 

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「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉があるけれど、同時に複数のことをうまくやろうとすると、どっちもうまくいかないことが多い。

 

例えば何かを食べながらネットサーフィンをすると、ほぼ100パーセント、今食べたものがどんな味でどんな見た目だったか覚えていない。せっかく美味しいものを食べてもそのことを覚えてないなんてもったいないなと思う。

 

お酒を飲むことは好きなのだけど、酔っぱらいながら誰かと話したことは、翌日になるとぼんやりとしか覚えていないのが勿体ないなあと思ったりもする。

 

というわけで、複数のことを同時にするのがあまり好きではない。というか「心がここにない状態でなにかをするのが好きじゃない」だけかもしれない。確かにそこにあったはずの感動を取りこぼしているような気分になる。

 

でも、矛盾するようだけど例えば音楽やラジオなどを聞きながら優先度の低い作業やあまり頭を使わなくてもできる作業を淡々とこなす「ながら作業」はわりと好き。「心がここにない」状態を意識的につくることで肩の力が抜ける場合もあるので、なんでも使い分けが大切なのかもしれない。